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草梁倭館は語る

  • 2008/02/17(日) 00:00:00

この記事がアップされている頃は、たぶん関釜フェリーに乗っています。「死の讃美」の尹心悳と金裕鎮が徳寿丸から身を投じたのが今から82年前、1926年8月4日の明け方4時だそうですが、極寒の玄界灘…そんな時間に甲板にでることはできませ~ん!

昨年9月以来の釜山訪問です。昨年は2回釜山を訪れていて、5月に訪問した時は運良く「40階段文化館」で「草梁倭館 초량왜관」の資料展が開催されていました。

sodonyo_wakan_1.jpg
記事と写真は特に(時代的にも)関係ございません
たまにはギルちゃんでいかが?
リュジン氏日本の時代劇でも似合いそう~

江戸時代の日本は「鎖国令」のもと、長崎の出島以外は外国に対して閉ざされた国だと思われがちです。しかし、江戸幕府と朝鮮国との間には、対等な外交関係が結ばれ、定期的に「朝鮮通信使」が来日していました。朝鮮国との外交では、幕府は直接外交実務に携わらず、中世以来朝鮮との外交・貿易で中心的役割を担っていた対馬宗家に実務を委ねていました。

「倭館」とは、朝鮮国内の日本人居留地域であり、対馬宗家が多くの役人を派遣して、外交をおこなう場のことを指します。
15世紀初頭には「倭館」の存在が確認できるそうですが、約200年間(1678~1873)、最も長い期間倭館が置かれたのが釜山浦の草梁に設置された「草梁倭館」です。

昨年、釜山を訪問した時に、釜山タワーのある龍頭山公園にある草梁倭館跡を訪ねました。その草梁倭館でおこった出来事がつぶさに記録されている資料(『対馬宗家倭館関係資料』1593点)が、昨年日本で「重要文化財」に指定されたのをご存じでしようか。

明治6年(1873)に倭館が明治政府(外務省)に接収され、倭館に伝えられた諸記録は国有となりました。その後、明治27年には当時の「帝室図書館」に移管され、現在は国立国会図書館で保管されています。
この中でも特に倭館を統括する館守の記録である『館守日記』は倭館でおこった日々の出来事を細かく記録しており、江戸時代、日本と朝鮮半島との交流を探る上でも欠かすことのできない貴重な資料です。

今、研究者の間で、草梁倭館の復元考察がすすめられているそうです。私たちが釜山を訪れた時に、倭館やそこでおこなわれていた江戸時代の朝鮮半島との交流の歴史を具に見て感じることのできる施設があったらいいのに。これってやっぱり日本側が倭館や関連する資料の存在をもっと国内でPRしなけりゃいけないんでしょうね。

参考:『月刊 文化財』525号(平成19年6月1日発行)

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